ザブトン海峡・航海記

まとめ。僕の中世史観

2012年10月9日

はじめに
勉強不足や説明不足もあるだろうし、複雑な中世の社会を語るには、あまりに文字数が足らない。ざっくり過ぎるのを承知で書きます。
ゆえに「僕の中世史観」というタイトルにしました。
「僕の中世史観」
今回の見学は、中世史の面白さを再確認する旅になった。
日本の中世史を理解しようとする時に、一番障害になるのが、近世のイメージを、そのまま中世のイメージに当てはめてしまうことだろう。
僧侶は静かに、世の平安を望んで、質素な暮らしの中で日々のお勤めに励む。
武士は、武士道精神を尊び、武道の鍛練の中で、社会を統治する。
農民は、租税や粗食に耐えて、ひたすら与えられた土地にしがみつき、一揆を起こそうものなら、たちまち抑えられて、命乞いをする…
この時代劇のような歴史観を中世史に当てはめるには、無理がある。
中世は、もっと混沌としてダイナミックなのだ。
日本国という単位がまだ完全に意識として確率していない時代の中世は、コミュニティ自体が国家なのである。
例えば今回の、白山平泉寺のように、僧侶であり、であり、武士であり、職人であり、商人であり、農民でありの人が、白山信仰の結びつきの中でコミュニティを作り、対抗勢力があれば武装して、地頭でも攻め滅ぼし、一向一揆と衝突し、戦国大名でも簡単には手を出せない一大勢力として、この地に君臨し、城の要素も併せ持つ、整備された寺院都市を形成する事が出来たのである。
だから、農民や僧侶に追っかけ回され、命乞いした武士もいただろう。
もう少し細かく言えば、農民と武士の性質を持った人や、僧侶と武士の性質もった人に、追っかけ回され、命乞いした武士と農民の性質を持った人もいただろう…となる。
江戸時代の士農工商のイメージを引きずると、力強い中世日本の姿が見えてこないように思うのである。
そこから考えれば、身分の低い農民上がりの豊臣秀吉が天下を取ったというのも、近世の視点で見れば偉業かも知れないが、中世の視点でいえば、そんなに驚くような事ではないかも知れない。(先祖が何だかよく判らない戦国武将なんて沢山いる)
織田信長の、本願寺焼き討ちも、本願寺城に立て籠る敵兵を駆逐した。という事で、無抵抗の僧侶や庶民を残忍にも惨殺したといった話ではなく、本願寺が皆殺しにしなくてはいけないほどの脅威的な一大勢力だったという、ひとつの証しだ。
織田信長包囲網の中で、下手したら逆に本願寺勢に攻められ、信長が磔になっていても、不思議ではは無かったはずだ。
秀吉がおこなった「刀狩り」も秀吉自身が、一揆や自身に当てはめ、武装する農民の怖さを知っていたからではないか。
ついでに言えば、江戸時代の「武士道」という教えや価値観は、中世の時代に逆のぼりさせないために、主君に対し反抗させない、一種の洗脳の要素もあったのではないだろうか?
職業も、意識もボーダーレスな世界。その混沌が、僕を中世史の世界へ誘うのであり、暇を見つけては雑木林の城の遺構を見つけては、キャーキャーさせる要因なのである。
本願寺が、北陸の一向一揆が、平泉寺が天下を取っても、全くおかしくなかった時代があった…
もし、そうなっていたら、近世、近代の日本の姿は、また別のものになっていただろう。
そう…松平健さんは、暴れん坊将軍ではなく、数珠を振り回して、悪人をこらしめる、暴れん坊大僧正だったかもしれないのだ。
写メは、落語家であり足軽でもある昇太。バカだなぁ。