にっぽり館
釣り!ダメでした!
癒しの時間が欲しい時に時々行っているのが「釣り」です 今回も清水にぎわい落語まつり」の翌日に、春風亭昇太、三遊亭白鳥、林家彦いちの「SWA釣り部」の3人で行ってきました。
静岡の釣りの師匠がいて、その人のお仲間が船を持っているので、いつもその方に船を出していただきまして駿河湾で釣り!なんですよ♬
台風一過の翌日は波もなく良い感じだったんですが、その次の日の僕たちが出かけた日は、なぜか波、波、波〜。
それでもアジやサバは釣れたんですけど、早々に引き上げました〜 
釣れて楽しいのも「釣り」上手くいかないのも「釣り」なんですよう〜♬
なんで、釣りの師匠がやっているお店で魚食べて、飲みましたとさ(酒)

また行こう!
九戸城発掘現場
そして今回、九戸城で見学させていただいたのが「石沢館」(九戸城の中にある曲輪の名称です)の発掘現場です。
「九戸政実の乱」の後九戸城は改修されて、本丸と二の丸の間の堀などは石垣が積まれているんですが、文献や絵図などに改修の記述等が無いことから、九戸城の石垣は他の曲輪には無いと考えられていたんですが、今年の発掘調査で、石沢館と呼ばれる曲輪からも石垣が発見されたそうで見てきました。

いゃあ良い石垣でしたね〜。
お城の姿なんですが、足利政権時代、全国の守護大名たちは室町将軍家の住まいである「花の御所」に合わせて館を作るんですね。住まいが権力の象徴なんです。
で、豊臣秀吉が天下を取ると「織豊系城郭」と呼ばれる織田、豊臣の流れの中で生まれた石垣と天守という、今の日本人がお城と言ったら思い浮かべるお城の形にならった城を盛んに作るんです。
九戸城も豊臣系の石垣の城にしたかったんでしょう。
その後、九戸城に居た南部氏は盛岡に「盛岡城」を築いて拠点を移動します。この盛岡市は見事な石垣の城なんですが、多分九戸城では高い石垣は造れないと思います。
九戸城は鹿児島県などにある「シラス」と呼ばれる火山灰と軽石が混じった砂のような地質で、ここに高い石垣を積む事が難しかったんじゃないかな? そんなことも盛岡への移転の要因の一つだったんじゃないのか…?
な〜んて考えた見学になりました!
春風亭昇太
九戸城に!
これもまた、ちょっと前の話(汗)何度も呼んでもらっている岩手県二戸市の中学生の皆さんに地元の史跡「九戸城」と、ついでに落語も聞いてもらおうという企画で、城郭ライターの萩原さちこさんと一緒に行ってきましたよ。
九戸城は豊臣秀吉が小田原の北条氏を破り、東日本を制圧して東北に進出。いわゆる「奥州仕置」に対して1591年「九戸政実」が蜂起した「九戸政実の乱」の舞台になったお城。
豊臣秀吉は6万の兵力で九戸城を攻めたが頑強に抵抗され、助命を条件に開城させましたが、開城後そんな約束守られることなく城内の人達は惨殺されたという悲劇の城でもあります。
そして、この乱をもって秀吉の「天下統一」ってことになります。 戦国時代終焉の地ということになりますね。
「続日本100名城」にも選ばれている史跡です♬ これ少し前の九戸城の写真。ボク若いな♬ 
春風亭昇太
