諏訪の落語会のお手伝いをお願いしたのは、春風亭遊雀さんと音曲の桂小すみさん。
小すみさんが諏訪市に行くなら行きたい場所があると言うので、どこなのかと思ったら「吉良義周」公のお墓だという。
それならばと3人でお墓のある諏訪市にある「法華寺」を訪ねた。お墓は寺の裏側にあました。
僕も知らなかったのでちょっと調べたら、吉良義周さんは本当に可哀想な人なんですね。関東管領を務めた家柄である上杉家の上杉綱憲の次男。そしてあの赤穂事件でお馴染みの、「吉良義央」通称、吉良上野介の孫である。
そんな縁から吉良上野介の養子となり吉良家を継ぐ立場にあったが、あの赤穂討入り事件が起きてしまう。
赤穂事件の経過はご存じの通りだが、あまり知られていないのがこの吉良家のその後の境遇である。
松の廊下の刃傷沙汰の後、上野介は隠居し義周は吉良家を継いでいたが、そこで赤穂討入り事件が勃発。 18才の義周は薙刀で応戦しますが、切られて重症。上野介は殺害されます。
そして、討入った大石蔵之介以下、討入りメンバーは切腹。
まぁ、これはしょうがないとして、打ち入られて上野介を殺害された吉良側は被害者のはずなのに、松の廊下の時の上野介が卑怯で、義周が応戦して切られ気絶した事が不届とされて吉良家は断絶。領地召上。義周は信濃諏訪高島藩にお預けとなり、諏訪の高島城内に移されます。
これ、ちょっとおかしいですよね⁈ 松の廊下の刃傷沙汰の時には吉良家に何のお咎めもなかったのに、討入り事件の後に上野介の責任を問われ、応戦して切られて気絶したことを「不届」とされて幽閉される。
18歳の若者が1対2で戦って、顔と背中を刀で切られたら気絶するよ!
そして許されることなく21歳という若さで亡くなります。
結局、赤穂討入り事件の関係者は全員亡くなって、後に作られた赤穂義士の物語だけが残って今に至ります。
映画やドラマや講談師が語るものは、歴史ではありません。歴史をモチーフにした物語です。エンターテイメントはエンターテイメント。歴史は歴史ですね。
義周公のお墓にあった吉良町からの説明板が歴史を一方向だけで見てはいけない事を物語っています。 これを建てた吉良町はエライ!
義周公のお墓
春風亭昇太