ザブトン海峡・航海記

春風亭昇太・韮山城調査のまとめ

2013年3月14日

今回「韮山城」「天ヶ岳」「本立寺付城」と城めぐりをしたが、全体的に残りが良くて、堪能出来た。
特に、付城は興味深く。あの延々と延びる土塁線は、やがて次の付城の土塁と繋がり、柵や塀。堀を経由しながら韮山城を取り囲んでいたようだ。
(写メ1)は「鎌倉幕府草創の地・伊豆韮山の中世遺跡群」(池谷初恵著)から拝借した、1948年米軍撮影の航空写真。
(この米軍の航空写真は、日本全国で大量に撮られていて、現在では消滅してしまった遺構等も写っており、城郭研究の資料ともなっています)
黄色の線が、航空写真に写っていた堀と考えられるラインだ。
これが、北条方が作ったもの…豊臣が作ったもの…韮山城攻めの後に作られたもの…と、幾つかの考えが挙げられているが、今後の研究で豊臣勢が作った堀で、この堀から付城の土塁ラインが繋がっていたとしたらどうだろう…
豊臣秀吉が加藤清正に宛てた書状に、こんな記述がある。
「韮山義も付城堀、塀、柵出来候、是又可被干殺候」
鍋島直茂に宛てた書状には。
「堀をほりまわし、堀(塀?)柵を丈夫相付、鳥之かよひも無之被仰付候」
とある。
これを、それぞれ名古屋弁風に現代語訳すると…。
「韮山にも付城、堀、塀、柵が出来ましたがね。ここもまあ、飢え死にさせたりますがね〜」
「堀を掘って囲んだってせゃーが、塀や柵の丈夫いのを作りつけたって、そんで鳥も通わんようにせやあって、命令しましたがね〜」
…となる。なるか?
これらが、秀吉の誇張ではなかった事が証明されたら。とても面白いと思う♪
いずれにせよ、韮山城を中心とする城郭遺構は、豊臣秀吉の城攻めの全貌を、史跡という形で明らかにする、大変に貴重な資料である事は間違いない。
今後の10年続くという調査が待たれるところだが、それには伊豆の国市の韮山の皆さんの、理解と協力が何よりも必要となるだろうが、もとより歴史深い地区の皆さんだから、大丈夫だろう。
史実には関係無いテキトーな天守閣風の建物を建てて、城跡を公園整備する時代は、とっくに終わっている。
ますます本物が求められる今だからこそ、韮山城や周辺の城郭遺構の重要性がグロースアップされて、大事にされていく事を、期待しています…。
〓春風亭昇太〓