4 月上席浅草出演のお知らせ
2013年3月22日
4/1〜5 四月上席前半昼の部に出演します。
久しぶりにトリをとりますよ。
出演時間です。
4/1(月)〜5(金) 16:10上がり
お休みはありません。
一門の兄弟子や弟弟子も大集合。お暇でしたら是非来て下さいませ〜♪
〓春風亭昇太〓
久しぶりにトリをとりますよ。
出演時間です。
4/1(月)〜5(金) 16:10上がり
お休みはありません。
一門の兄弟子や弟弟子も大集合。お暇でしたら是非来て下さいませ〜♪
〓春風亭昇太〓
岩国の美味♪
2013年3月17日
春風亭昇太・韮山城調査のまとめ
2013年3月14日
今回「韮山城」「天ヶ岳」「本立寺付城」と城めぐりをしたが、全体的に残りが良くて、堪能出来た。
特に、付城は興味深く。あの延々と延びる土塁線は、やがて次の付城の土塁と繋がり、柵や塀。堀を経由しながら韮山城を取り囲んでいたようだ。
(写メ1)は「鎌倉幕府草創の地・伊豆韮山の中世遺跡群」(池谷初恵著)から拝借した、1948年米軍撮影の航空写真。
(この米軍の航空写真は、日本全国で大量に撮られていて、現在では消滅してしまった遺構等も写っており、城郭研究の資料ともなっています)
黄色の線が、航空写真に写っていた堀と考えられるラインだ。
これが、北条方が作ったもの…豊臣が作ったもの…韮山城攻めの後に作られたもの…と、幾つかの考えが挙げられているが、今後の研究で豊臣勢が作った堀で、この堀から付城の土塁ラインが繋がっていたとしたらどうだろう…
豊臣秀吉が加藤清正に宛てた書状に、こんな記述がある。
「韮山義も付城堀、塀、柵出来候、是又可被干殺候」
鍋島直茂に宛てた書状には。
「堀をほりまわし、堀(塀?)柵を丈夫相付、鳥之かよひも無之被仰付候」
とある。
これを、それぞれ名古屋弁風に現代語訳すると…。
「韮山にも付城、堀、塀、柵が出来ましたがね。ここもまあ、飢え死にさせたりますがね〜」
「堀を掘って囲んだってせゃーが、塀や柵の丈夫いのを作りつけたって、そんで鳥も通わんようにせやあって、命令しましたがね〜」
…となる。なるか?
これらが、秀吉の誇張ではなかった事が証明されたら。とても面白いと思う♪
いずれにせよ、韮山城を中心とする城郭遺構は、豊臣秀吉の城攻めの全貌を、史跡という形で明らかにする、大変に貴重な資料である事は間違いない。
今後の10年続くという調査が待たれるところだが、それには伊豆の国市の韮山の皆さんの、理解と協力が何よりも必要となるだろうが、もとより歴史深い地区の皆さんだから、大丈夫だろう。
史実には関係無いテキトーな天守閣風の建物を建てて、城跡を公園整備する時代は、とっくに終わっている。
ますます本物が求められる今だからこそ、韮山城や周辺の城郭遺構の重要性がグロースアップされて、大事にされていく事を、期待しています…。
〓春風亭昇太〓
特に、付城は興味深く。あの延々と延びる土塁線は、やがて次の付城の土塁と繋がり、柵や塀。堀を経由しながら韮山城を取り囲んでいたようだ。
(写メ1)は「鎌倉幕府草創の地・伊豆韮山の中世遺跡群」(池谷初恵著)から拝借した、1948年米軍撮影の航空写真。
(この米軍の航空写真は、日本全国で大量に撮られていて、現在では消滅してしまった遺構等も写っており、城郭研究の資料ともなっています)
黄色の線が、航空写真に写っていた堀と考えられるラインだ。
これが、北条方が作ったもの…豊臣が作ったもの…韮山城攻めの後に作られたもの…と、幾つかの考えが挙げられているが、今後の研究で豊臣勢が作った堀で、この堀から付城の土塁ラインが繋がっていたとしたらどうだろう…
豊臣秀吉が加藤清正に宛てた書状に、こんな記述がある。
「韮山義も付城堀、塀、柵出来候、是又可被干殺候」
鍋島直茂に宛てた書状には。
「堀をほりまわし、堀(塀?)柵を丈夫相付、鳥之かよひも無之被仰付候」
とある。
これを、それぞれ名古屋弁風に現代語訳すると…。
「韮山にも付城、堀、塀、柵が出来ましたがね。ここもまあ、飢え死にさせたりますがね〜」
「堀を掘って囲んだってせゃーが、塀や柵の丈夫いのを作りつけたって、そんで鳥も通わんようにせやあって、命令しましたがね〜」
…となる。なるか?
これらが、秀吉の誇張ではなかった事が証明されたら。とても面白いと思う♪
いずれにせよ、韮山城を中心とする城郭遺構は、豊臣秀吉の城攻めの全貌を、史跡という形で明らかにする、大変に貴重な資料である事は間違いない。
今後の10年続くという調査が待たれるところだが、それには伊豆の国市の韮山の皆さんの、理解と協力が何よりも必要となるだろうが、もとより歴史深い地区の皆さんだから、大丈夫だろう。
史実には関係無いテキトーな天守閣風の建物を建てて、城跡を公園整備する時代は、とっくに終わっている。
ますます本物が求められる今だからこそ、韮山城や周辺の城郭遺構の重要性がグロースアップされて、大事にされていく事を、期待しています…。
〓春風亭昇太〓
春風亭昇太・本立寺付城へ
2013年3月5日
城攻めの朝は早い。待ち合わせ場所の本立寺に行くと、調査の人数が増えている。
名前を出していいのか確認していないので、ここでは名前は伏せるが、あっ!この方あの歴史雑誌で見た。この人の論文読んだ。あのホームページ書いてる人だ♪…みたいな人ばかり。!
何だか、スターに会っているみたいで、嬉しいぞ♪
本立寺の脇から山道を進む。途中、堀切や竪堀を確認。本立寺付城に入った証拠。
さらに進むと、土塁が見えてきた。(写メ1)
この土塁が長い!尾根筋に延々と続いているではないか!
そして、その伸びている土塁の先は断崖で止まっていた…
ここに配属されていたのは蜂須賀家政隊・2500の軍勢だ。大きな駐屯地となるような場所が無い事から、蜂須賀隊の足軽達は、この長く続く土塁に貼り付くように、煮炊をし、博打で僅かな銭を賭けながら、寝起きをしていた事だろう。
そんな想像をしているだけで楽しい。城歩きの醍醐味の1つだ♪
妄想にふけっていると
「じゃあ昇太さんは、そろそろ…」
落語会は14時開演。残念だがタイムアップだ。
「師匠〜。残念ですね〜♪」
笑いながら、さらに奥を見に行く皆さんと別れて、土塁を見ながら、下山。
奥の方が何だか楽しそうだなぁ〜。
韮山での充実の2日間だった…
〓春風亭昇太〓
名前を出していいのか確認していないので、ここでは名前は伏せるが、あっ!この方あの歴史雑誌で見た。この人の論文読んだ。あのホームページ書いてる人だ♪…みたいな人ばかり。!
何だか、スターに会っているみたいで、嬉しいぞ♪
本立寺の脇から山道を進む。途中、堀切や竪堀を確認。本立寺付城に入った証拠。
さらに進むと、土塁が見えてきた。(写メ1)
この土塁が長い!尾根筋に延々と続いているではないか!
そして、その伸びている土塁の先は断崖で止まっていた…
ここに配属されていたのは蜂須賀家政隊・2500の軍勢だ。大きな駐屯地となるような場所が無い事から、蜂須賀隊の足軽達は、この長く続く土塁に貼り付くように、煮炊をし、博打で僅かな銭を賭けながら、寝起きをしていた事だろう。
そんな想像をしているだけで楽しい。城歩きの醍醐味の1つだ♪
妄想にふけっていると
「じゃあ昇太さんは、そろそろ…」
落語会は14時開演。残念だがタイムアップだ。
「師匠〜。残念ですね〜♪」
笑いながら、さらに奥を見に行く皆さんと別れて、土塁を見ながら、下山。
奥の方が何だか楽しそうだなぁ〜。
韮山での充実の2日間だった…
〓春風亭昇太〓
春風亭昇太・韮山攻めはまだ続く!
2013年3月5日
しかし、天ヶ岳は素晴らしかった…
興奮を押さえながら、中井先生や、伊豆の国市文化振興課の皆さんと会食をした。
未練たらしく「明日は、皆さんは〜何処を見に行くんです〜か〜〜」と聞くと、付城を見に行くのだそうだ!!
「付城ですかぁ〜!♪」
付城とは、城攻めをする際に、当然反撃を食らう場合もあるし、ある一定の日数の駐屯が必要になる場合、拠点となる防御施設がないと安心出来ない。
そこで、城を攻める時に、城攻めの為の城を造るのだが、それを「付城」と呼ぶ。
この付城作戦を得意としたのが、織田信長であり、豊臣秀吉で。
攻める城を、付城を幾つも築いて取り囲み、兵糧を絶ち切って降伏させたり、その城の行動を押さえる事で、別の作成を進行したりの城攻めパターンは「三木城」「鳥取城」で城内を「干殺し」(凄い言葉だ)した事でも有名である。
当然、北条氏制圧に来た豊臣秀吉は、韮山城攻めにあたり、この得意の作戦に出て、韮山城の周りに幾つもの付城を築く事になる。
それを見に行くと言うのだ!
「…いいですね〜…」と呟くと
「…行きますか〜?」と、皆さん。
何しろ、落語会の主催も伊豆の国市の文化振興課だから、城に体力の全てを使われたり、ケガでもされたら困るのだぁ〜
「お願いします〜」
「1つだけですよ!」
つ〜事で、わしの韮山攻めは、まだまだ終わらない!付城 に行くのだ!
写メは、毛利家文庫の「小田原之時韮山城仕寄陣取図」からの資料
韮山城を豊臣配下の武将が取り囲んでいるのがわかる。
〓春風亭昇太〓
興奮を押さえながら、中井先生や、伊豆の国市文化振興課の皆さんと会食をした。
未練たらしく「明日は、皆さんは〜何処を見に行くんです〜か〜〜」と聞くと、付城を見に行くのだそうだ!!
「付城ですかぁ〜!♪」
付城とは、城攻めをする際に、当然反撃を食らう場合もあるし、ある一定の日数の駐屯が必要になる場合、拠点となる防御施設がないと安心出来ない。
そこで、城を攻める時に、城攻めの為の城を造るのだが、それを「付城」と呼ぶ。
この付城作戦を得意としたのが、織田信長であり、豊臣秀吉で。
攻める城を、付城を幾つも築いて取り囲み、兵糧を絶ち切って降伏させたり、その城の行動を押さえる事で、別の作成を進行したりの城攻めパターンは「三木城」「鳥取城」で城内を「干殺し」(凄い言葉だ)した事でも有名である。
当然、北条氏制圧に来た豊臣秀吉は、韮山城攻めにあたり、この得意の作戦に出て、韮山城の周りに幾つもの付城を築く事になる。
それを見に行くと言うのだ!
「…いいですね〜…」と呟くと
「…行きますか〜?」と、皆さん。
何しろ、落語会の主催も伊豆の国市の文化振興課だから、城に体力の全てを使われたり、ケガでもされたら困るのだぁ〜
「お願いします〜」
「1つだけですよ!」
つ〜事で、わしの韮山攻めは、まだまだ終わらない!付城 に行くのだ!
写メは、毛利家文庫の「小田原之時韮山城仕寄陣取図」からの資料
韮山城を豊臣配下の武将が取り囲んでいるのがわかる。
〓春風亭昇太〓
春風亭昇太・天ヶ岳へ・2
2013年3月3日
さて、天ヶ岳の続きだ。
山中に現れる、北条氏特有の畝堀に驚嘆しながら、更に尾根筋をロープを頼りに進む!!
尾根の幅だから、とても狭い。調査の一行も、縦長の列になって進むのだが、これは、この天ヶ岳砦を攻める敵側の部隊も同様だろう。何しろ両サイドは山の斜面で、現在のように鬱蒼と木がはえてはいない。
以前、何度か書いたが、城だった時代は防衛上視界が悪いので、木は伐採されていたハズ。両側が絶壁の山の細い尾根を進むのは精神的に辛い!特に先頭の人の心細さは容易に推察出来る。
その、ただでさえ細い尾根の先に、こんな細工が施してあった〜 (写メ1)
…わかりますか?、細い尾根を更に削って、細い土橋になってます。ここは絶対に1列になります!
ここを、震える気持ちを押さえながら渡っている時に、前から矢や鉄砲で撃たれたら…逃げようが無い。撃たれるか、谷底へ落ちるか2つに1つの選択だ!!
いや、撃たれて落ちるという、もう1つの選択も有りか〜!
この他にも尾根上には、わざと蛇行させなから進ませる構造の削り方をしたような箇所もあり、山中にはキャーキャー♪言ってる落語家の声がこだましておったそうな♪
天ヶ岳は、本格的なトレッキング装備でないと危険な箇所も有り、一般の方にはオススメ出来る場所ではない。
実際僕も普段の格好で参加したので、前進を断念した場所もあった。
しかし、十分な装備と案内が有ったら。一見の価値のある素晴らしい城郭遺構だ。
帰りには土手和田砦にも少し寄ってもらったが、ここもL字型の堀に畝が施されている、ホント残りが良い〜♪
日を改めて、またユックリ行こう〜っと。
さぁ、一泊したら落語会かぁ〜。
…本来は、その為に伊豆の国市に来たんだろ!!バカ
〓春風亭昇太〓
山中に現れる、北条氏特有の畝堀に驚嘆しながら、更に尾根筋をロープを頼りに進む!!
尾根の幅だから、とても狭い。調査の一行も、縦長の列になって進むのだが、これは、この天ヶ岳砦を攻める敵側の部隊も同様だろう。何しろ両サイドは山の斜面で、現在のように鬱蒼と木がはえてはいない。
以前、何度か書いたが、城だった時代は防衛上視界が悪いので、木は伐採されていたハズ。両側が絶壁の山の細い尾根を進むのは精神的に辛い!特に先頭の人の心細さは容易に推察出来る。
その、ただでさえ細い尾根の先に、こんな細工が施してあった〜 (写メ1)
…わかりますか?、細い尾根を更に削って、細い土橋になってます。ここは絶対に1列になります!
ここを、震える気持ちを押さえながら渡っている時に、前から矢や鉄砲で撃たれたら…逃げようが無い。撃たれるか、谷底へ落ちるか2つに1つの選択だ!!
いや、撃たれて落ちるという、もう1つの選択も有りか〜!
この他にも尾根上には、わざと蛇行させなから進ませる構造の削り方をしたような箇所もあり、山中にはキャーキャー♪言ってる落語家の声がこだましておったそうな♪
天ヶ岳は、本格的なトレッキング装備でないと危険な箇所も有り、一般の方にはオススメ出来る場所ではない。
実際僕も普段の格好で参加したので、前進を断念した場所もあった。
しかし、十分な装備と案内が有ったら。一見の価値のある素晴らしい城郭遺構だ。
帰りには土手和田砦にも少し寄ってもらったが、ここもL字型の堀に畝が施されている、ホント残りが良い〜♪
日を改めて、またユックリ行こう〜っと。
さぁ、一泊したら落語会かぁ〜。
…本来は、その為に伊豆の国市に来たんだろ!!バカ
〓春風亭昇太〓
春風亭昇太・天ヶ岳へ
2013年3月3日
さて伊豆の国市、韮山城調査同行レポート第二弾「天ヶ岳」である。
前記した韮山城の堀切の先に天ヶ岳が在る。
韮山の町にヒトデ(海の生き物だよ)のような形で尾根を伸ばしている、標高128メートルの山が天ヶ岳である。
この山頂部に天ヶ岳砦があり。そこから伸びるヒトデの足の先を、堀切で分断して、独立性を持った城郭として存在しているのが韮山城という訳だが、このヒトデの足の先にには韮山城以外にも「江川砦」「土手和田砦」「和田砦」がそれぞれ配置され、拠点である韮山城から見えない死角となる方面をサポートしている。
(写メ1・江川砦と天ヶ岳を分断している堀切。現在でも凄い堀切だが、当時はもっと深く、鋭かったハズだ!)
さて、いよいよ今回の調査で一番楽しみにしていた天ヶ岳だ!
こちらは、韮山城のようには整備されていないので、斜面をロープを頼りに進む。案内無しではちょっと不安になりそうな城跡だ。昔はこんな城跡ばかりで、よく行ったなぁ。
しかし…遺構は素晴らしい♪山が岩盤で出来ているために、普通の土の城と違い、土砂が流れにくいので残りが良い!
我々は天ヶ岳から伸びる細い尾根上を山頂に向かって進む。それは敵側の侵入ルートでもある。その先には尾根を断ち切る堀が待っていて、それが北条氏特有の畝堀になっているぞ!
(写メ2・堀切を上から見たところ。中央の木が邪魔だが、木の両サイドに、僅かに緑色に苔むした2本の畝が見えます)
どうだ!コレ!
…これは発掘や整備の結果ではない。400年前の人達の土木工事が、そのまま見られるのは驚くべき事だ!
そして、この先の尾根には、更に敵を阻む仕掛けが待っていた♪
…つづく
前記した韮山城の堀切の先に天ヶ岳が在る。
韮山の町にヒトデ(海の生き物だよ)のような形で尾根を伸ばしている、標高128メートルの山が天ヶ岳である。
この山頂部に天ヶ岳砦があり。そこから伸びるヒトデの足の先を、堀切で分断して、独立性を持った城郭として存在しているのが韮山城という訳だが、このヒトデの足の先にには韮山城以外にも「江川砦」「土手和田砦」「和田砦」がそれぞれ配置され、拠点である韮山城から見えない死角となる方面をサポートしている。
(写メ1・江川砦と天ヶ岳を分断している堀切。現在でも凄い堀切だが、当時はもっと深く、鋭かったハズだ!)
さて、いよいよ今回の調査で一番楽しみにしていた天ヶ岳だ!
こちらは、韮山城のようには整備されていないので、斜面をロープを頼りに進む。案内無しではちょっと不安になりそうな城跡だ。昔はこんな城跡ばかりで、よく行ったなぁ。
しかし…遺構は素晴らしい♪山が岩盤で出来ているために、普通の土の城と違い、土砂が流れにくいので残りが良い!
我々は天ヶ岳から伸びる細い尾根上を山頂に向かって進む。それは敵側の侵入ルートでもある。その先には尾根を断ち切る堀が待っていて、それが北条氏特有の畝堀になっているぞ!
(写メ2・堀切を上から見たところ。中央の木が邪魔だが、木の両サイドに、僅かに緑色に苔むした2本の畝が見えます)
どうだ!コレ!
…これは発掘や整備の結果ではない。400年前の人達の土木工事が、そのまま見られるのは驚くべき事だ!
そして、この先の尾根には、更に敵を阻む仕掛けが待っていた♪
…つづく
春風亭昇太・韮山城に
2013年2月12日
先日、伊豆の国市での公演があり、その前日に韮山城を見ませんかとお誘いがあり、喜んで参加させていただいた。
一行は伊豆の国市文化振興課の皆さんに、静岡古城研究会の望月さん。滋賀大学の中井均先生に僕。
韮山城は25年ぶりだ。まだ二つ目だったボクが師匠のお供で韮山の落語会に来た時に、合間を縫って行ったので、汗だくで韮山城を駆け回ったのを覚えている。
今回は、時間はたっぷりあるよ〜♪
先ずは、韮山城。
整備で木を伐採してくれているので、25年前とは雲泥の差の見やすさである。三ノ丸と権現曲輪の間を通るルートの虎口(城の出入口)は大きな枡形になっていて、凄い迫力だ!
三ノ丸は現在はテニスコート。隣接する韮山高校の学生さんだろうか。青春している!
韮山高校は「にらこう」と呼ばれている県内屈指の進学校であり、静岡で一番歴史のある公立高校。その昔は甲子園で優勝した事もある文武両道で、校章には北条家の家紋であるミツウロコがあしらわれているそうだ。格好イイぞ!
頭が良くて、学校が名城!なんて羨ましいんだ〜♪(校庭の発掘調査では、堀が見つかっている)
権現曲輪は神社の参道を造るために一部壊れているが、土塁がキレイに一周しているのが判る。
二ノ丸、本丸と良好に遺構が残っているが、圧巻だったのは本丸の先にある遺構。「塩蔵」と伝わっているが、煙硝蔵とも櫓台とも考えられるこの場所は何だったのだろう?それにしてもコの字形のキレイな土塁だ♪(写メ1)
一旦、城池と呼ばれる溜め池に側に出て、天ヶ岳に続く尾根方面に進むと、出てきた〜!
3ヶ所連続する巨大な堀切だぁ♪(写メ2がその1つ) その中の天ヶ岳側の堀切は、車が通る生活道路にもなっている。
この堀切で天ヶ岳方面とは完全に遮断され、韮山城は独立した城郭として、その機能を果たせるのだ。
久しぶりの訪城だが、良い整備が進んでいる。何と言っても特筆すべきは、その見やすさで、その一番の要因は木の伐採にある。
改めて史跡である山城を、ただの山にしない為に、木の伐採がいかに有効な手だてなのかを確認出来た韮山城見学だった。
次は、天ヶ岳だ〜
つづく♪
〓春風亭昇太〓
一行は伊豆の国市文化振興課の皆さんに、静岡古城研究会の望月さん。滋賀大学の中井均先生に僕。
韮山城は25年ぶりだ。まだ二つ目だったボクが師匠のお供で韮山の落語会に来た時に、合間を縫って行ったので、汗だくで韮山城を駆け回ったのを覚えている。
今回は、時間はたっぷりあるよ〜♪
先ずは、韮山城。
整備で木を伐採してくれているので、25年前とは雲泥の差の見やすさである。三ノ丸と権現曲輪の間を通るルートの虎口(城の出入口)は大きな枡形になっていて、凄い迫力だ!
三ノ丸は現在はテニスコート。隣接する韮山高校の学生さんだろうか。青春している!
韮山高校は「にらこう」と呼ばれている県内屈指の進学校であり、静岡で一番歴史のある公立高校。その昔は甲子園で優勝した事もある文武両道で、校章には北条家の家紋であるミツウロコがあしらわれているそうだ。格好イイぞ!
頭が良くて、学校が名城!なんて羨ましいんだ〜♪(校庭の発掘調査では、堀が見つかっている)
権現曲輪は神社の参道を造るために一部壊れているが、土塁がキレイに一周しているのが判る。
二ノ丸、本丸と良好に遺構が残っているが、圧巻だったのは本丸の先にある遺構。「塩蔵」と伝わっているが、煙硝蔵とも櫓台とも考えられるこの場所は何だったのだろう?それにしてもコの字形のキレイな土塁だ♪(写メ1)
一旦、城池と呼ばれる溜め池に側に出て、天ヶ岳に続く尾根方面に進むと、出てきた〜!
3ヶ所連続する巨大な堀切だぁ♪(写メ2がその1つ) その中の天ヶ岳側の堀切は、車が通る生活道路にもなっている。
この堀切で天ヶ岳方面とは完全に遮断され、韮山城は独立した城郭として、その機能を果たせるのだ。
久しぶりの訪城だが、良い整備が進んでいる。何と言っても特筆すべきは、その見やすさで、その一番の要因は木の伐採にある。
改めて史跡である山城を、ただの山にしない為に、木の伐採がいかに有効な手だてなのかを確認出来た韮山城見学だった。
次は、天ヶ岳だ〜
つづく♪
〓春風亭昇太〓
春風亭昇太・新庄城へ
2013年2月8日
昨夜は柳家花禄さんとの二人会が山形県新庄市でありました。
会場の市民文化会館に着いてから、高座やマイクのチェックを済ませてからすぐ隣の「新庄城」に行く。
隣といっても本丸が隣。という事で、会館も本来は新庄城城内である。
新庄城は新庄藩の居城。戊辰戦争では、当初は奥羽越列藩同盟に入っていたが、久保田藩(秋田)が新政府側に付くと、新庄藩も共に新政府側に…
怒った庄内藩に攻められて、新庄城は落城の憂き目に!
大きな時代のうねりの中では、小さな勢力は生き残りをかけて、大変な目にあうのは戦国時代も明治維新も同じですね〜
そんな、悲しい戦闘もあった新庄城にイザ出陣!
しかぁし。雪のため堀も土塁も、真っ白!(写メ・堀だよ♪)
雪に弱い、静岡県民は侵攻を断念して、あえなく退散いたしました。
さて。落城じゃなくて、落語会の方は、雪の中集まってくれた新庄のお客さんはノリノリで、喋っていても凄く楽しかったです。
独演会をやりたいくらい!
新庄の皆様。ありがとうございました♪
〓春風亭昇太〓
会場の市民文化会館に着いてから、高座やマイクのチェックを済ませてからすぐ隣の「新庄城」に行く。
隣といっても本丸が隣。という事で、会館も本来は新庄城城内である。
新庄城は新庄藩の居城。戊辰戦争では、当初は奥羽越列藩同盟に入っていたが、久保田藩(秋田)が新政府側に付くと、新庄藩も共に新政府側に…
怒った庄内藩に攻められて、新庄城は落城の憂き目に!
大きな時代のうねりの中では、小さな勢力は生き残りをかけて、大変な目にあうのは戦国時代も明治維新も同じですね〜
そんな、悲しい戦闘もあった新庄城にイザ出陣!
しかぁし。雪のため堀も土塁も、真っ白!(写メ・堀だよ♪)
雪に弱い、静岡県民は侵攻を断念して、あえなく退散いたしました。
さて。落城じゃなくて、落語会の方は、雪の中集まってくれた新庄のお客さんはノリノリで、喋っていても凄く楽しかったです。
独演会をやりたいくらい!
新庄の皆様。ありがとうございました♪
〓春風亭昇太〓
春風亭昇太・赤木城へ
2013年1月21日
NHK名古屋の取材で三重県熊野市にある「赤木城」へ行ってきた。(写メ1)
赤木城は、お城の本の縄張り図を見ながら、いつか行ってみたいなぁ〜。なんて思っていたた城の一つだが、今回念願叶い訪城♪
築城名人、藤堂高虎の築城と考えられ「天正の北山一揆」鎮圧や、この地方の豊富な木材資源の活用にかかわっていたようだ。
そんな、軍事、経済の拠点となった赤木城は、石垣で築かれ「主郭」を基点として「東郭」「西郭」がカニのハサミのような形で広がっている。
城の防御上一番重要な「虎口」(城の出入り口)は枡形虎口(写メ2)が何重も続く、複雑で堅固な守りで、当時ここに突然現れた石垣造りの「赤木城」を見た時のこの地の人達の驚きは、想像に難くない!
中世の城から、近世の城へ移行してゆく過程の、重要な資料となる貴重な史跡の 赤木城は地元の皆さんの努力によって整備され、大変に観やすい城跡でもある。
そして静かな里の岡に、整然と並ぶ石垣がなんとも言えない風情をかもしだしていて、とても美しい城だ。(写メ3)
行けて良かった〜♪
〓春風亭昇太〓
赤木城は、お城の本の縄張り図を見ながら、いつか行ってみたいなぁ〜。なんて思っていたた城の一つだが、今回念願叶い訪城♪
築城名人、藤堂高虎の築城と考えられ「天正の北山一揆」鎮圧や、この地方の豊富な木材資源の活用にかかわっていたようだ。
そんな、軍事、経済の拠点となった赤木城は、石垣で築かれ「主郭」を基点として「東郭」「西郭」がカニのハサミのような形で広がっている。
城の防御上一番重要な「虎口」(城の出入り口)は枡形虎口(写メ2)が何重も続く、複雑で堅固な守りで、当時ここに突然現れた石垣造りの「赤木城」を見た時のこの地の人達の驚きは、想像に難くない!
中世の城から、近世の城へ移行してゆく過程の、重要な資料となる貴重な史跡の 赤木城は地元の皆さんの努力によって整備され、大変に観やすい城跡でもある。
そして静かな里の岡に、整然と並ぶ石垣がなんとも言えない風情をかもしだしていて、とても美しい城だ。(写メ3)
行けて良かった〜♪
〓春風亭昇太〓
寄席出番変更
2013年1月18日
似顔絵〜♪
2013年1月14日
[ 寄席の上がり時間 ]
2013年1月9日
明日、変更があります。
1/9(水)14:15上がり(末広亭)/15:10上がり(池袋)
1/10(木)12:10上がり(池袋)/13:10上がり(末広亭)
二之席 1/11〜20
14:30上がり(浅草)
※12(土)、15(火)、19(土)、20(日)時間変更ありますが、只今調整中でまた後日のせますね〜♪。
1/9(水)14:15上がり(末広亭)/15:10上がり(池袋)
1/10(木)12:10上がり(池袋)/13:10上がり(末広亭)
二之席 1/11〜20
14:30上がり(浅草)
※12(土)、15(火)、19(土)、20(日)時間変更ありますが、只今調整中でまた後日のせますね〜♪。
2012 年。ありがとう
2012年12月31日
誕生日
2012年12月20日
春風亭昇太・一乗谷に
2012年12月16日
お城番組の取材で、福井県の「一乗谷朝倉氏遺跡」に行ってきた♪
守護大名「斯波氏」を下剋上し、一向一揆を撃退して、この地を納めたのが「朝倉氏」
そしてこの一乗谷はその首都である。
山と山とに挟まれた谷の前後を土塁と石垣の「上城戸」「下城戸」でシャットアウトして、中心に館。山の上に城。城下町は館の周りから城戸の外側にも広がり、そこを囲むように幾つもの城で防御した要塞都市だ。
織田信長によって滅ぼされて、その後信長は越前国の中心を北ノ庄(福井市)に移した為、戦国大名の館。城。城下町の遺跡がセットで奇跡的に残っている大変に貴重な史跡。
城下町の跡には町並みが復元され、中世の街をブラつく事が出来るという、夢のような場所だ。
写メ1は「朝倉義景館」(唐門は江戸時代のもの)
ここは、本当に美しい。館の中に入ると、礎石が並び往時に建っていた屋敷を思い浮かべるだけでウットリしてくる。
写メ2は雪化粧の庭。越前の覇者の雅な一面を垣間見る事が出来ますね〜♪
今回は雪の為に一乗谷城に登る事が出来なかったが、また行けばいいや〜♪
〓春風亭昇太〓
守護大名「斯波氏」を下剋上し、一向一揆を撃退して、この地を納めたのが「朝倉氏」
そしてこの一乗谷はその首都である。
山と山とに挟まれた谷の前後を土塁と石垣の「上城戸」「下城戸」でシャットアウトして、中心に館。山の上に城。城下町は館の周りから城戸の外側にも広がり、そこを囲むように幾つもの城で防御した要塞都市だ。
織田信長によって滅ぼされて、その後信長は越前国の中心を北ノ庄(福井市)に移した為、戦国大名の館。城。城下町の遺跡がセットで奇跡的に残っている大変に貴重な史跡。
城下町の跡には町並みが復元され、中世の街をブラつく事が出来るという、夢のような場所だ。
写メ1は「朝倉義景館」(唐門は江戸時代のもの)
ここは、本当に美しい。館の中に入ると、礎石が並び往時に建っていた屋敷を思い浮かべるだけでウットリしてくる。
写メ2は雪化粧の庭。越前の覇者の雅な一面を垣間見る事が出来ますね〜♪
今回は雪の為に一乗谷城に登る事が出来なかったが、また行けばいいや〜♪
〓春風亭昇太〓
ア・ラ・カルト
2012年12月11日
誕生日〜
2012年12月9日
昇太・高畠華宵の世界へ
2012年12月3日
昨日、瀧川鯉朝さんに頼まれて、鯉朝さんの故郷である高知市で二人会をやってきた。
ホールに入り打ち合わせを済ませて、まだ少し時間があったので、ブラブラ「高知城」に。
何度も訪れている城なので、今回は城回りを散策してたら「県立文学館」があり、そこで「高畠華宵の世界」という展示があったので、即チケット購入。
高畠華宵は大正・昭和に活躍した日本画家で「少年倶楽部」の挿絵や「津村順天堂・中将湯」のパッケージの絵などで有名な人だ。
美少女に美人画は当時の最新ファッションに身を包んで描かれていて妖艶。
少年画に至っては、美少女画をそのまま男装させたかのようで、妙に生々しい。(写メ2売店で売ってたポストカードより)
まさに大正ロマンのイメージを代表するような作風で、グッとくる♪
今回の展示では、肉筆画「初音」の掛軸が素晴らしくて、しばらく動けずボンヤリ見つめていた…
二人会が無ければ、もっと見ていられたのに…なんてね♪
二人会も楽しかったです!高知の皆さん、ありがとうございました。
〓春風亭昇太〓
ホールに入り打ち合わせを済ませて、まだ少し時間があったので、ブラブラ「高知城」に。
何度も訪れている城なので、今回は城回りを散策してたら「県立文学館」があり、そこで「高畠華宵の世界」という展示があったので、即チケット購入。
高畠華宵は大正・昭和に活躍した日本画家で「少年倶楽部」の挿絵や「津村順天堂・中将湯」のパッケージの絵などで有名な人だ。
美少女に美人画は当時の最新ファッションに身を包んで描かれていて妖艶。
少年画に至っては、美少女画をそのまま男装させたかのようで、妙に生々しい。(写メ2売店で売ってたポストカードより)
まさに大正ロマンのイメージを代表するような作風で、グッとくる♪
今回の展示では、肉筆画「初音」の掛軸が素晴らしくて、しばらく動けずボンヤリ見つめていた…
二人会が無ければ、もっと見ていられたのに…なんてね♪
二人会も楽しかったです!高知の皆さん、ありがとうございました。
〓春風亭昇太〓
春風亭昇太苗木城へ
2012年11月24日
岐阜県中津川に行った。僕らの世代で中津川といえば「中津川フォークジャンボリー」
当時の若者が熱狂した、フォークソングの祭典だ。
中学生だった僕が、トランジスタラジオを聞きながら、行きたいな〜なんて思っていた中津川。んで、今、一番行きたかったのが「苗木城」である。
現在の苗木城は鎌倉時代からの領主「遠山氏」が徳川家から、一万五百二十一石の大名として取りたてられ、中世からの苗木城を改修した城だが、この城が面白い!
山城に石垣を積み上げて築かれた苗木城。見よ!!この見事な大矢倉の石垣!(写メ1)
元々この山は巨岩が剥き出している山なのだが、その岩を利用して石垣を築いていていて、そのコントラストは素晴らしい♪
しかし、岩がゴツゴツしているという事は平坦な部分が少ない事を意味していて、そこに建築物を建てる為に「かけや造り」にしてあるのだ。(京都の清水寺を思い浮かべてね)
天守も、山の頂上にあった巨岩に柱を立てて築いてあった。(写メ2、復元の柱。この上に天守閣があったのね)
まぁ、こんな感じ(写メ3・パンフレットの写真より)
とにかく平坦な土地が無い。岩にへばりつくように、かけや造りで建造し、空堀を埋めてまで三の丸部分を作っている。
もはや執念である…。
山を降りて、平地に屋敷を建てればいいのだが、それをしない。先祖代々の居城への執着か?あらためて造るお金が無かったのか…?
僕が一番興味を持つのが、これが一万石の大名の城だという事だ。
一万石は大名の位の最小単位。本来お城なんて持てない。そんな事許されない事で、普通は陣屋を作って政務をすのである。
実際、五十余りの一万石の大名のうち苗木藩のみが、城持ち大名である。僕の故郷、清水区の小島藩も一万石で、しかも徳川家とは親戚の松平の流れの親藩だが、陣屋住まいだ。
何故、外様大名の遠山氏だけが城を持てたのだろう?
苗木藩は江戸時代を通して一度も国替えも無く、藩主の中には若年寄になった者もいる…
異例の優遇に、異形の城。苗木城は面白いのだ!!
〓春風亭昇太〓
当時の若者が熱狂した、フォークソングの祭典だ。
中学生だった僕が、トランジスタラジオを聞きながら、行きたいな〜なんて思っていた中津川。んで、今、一番行きたかったのが「苗木城」である。
現在の苗木城は鎌倉時代からの領主「遠山氏」が徳川家から、一万五百二十一石の大名として取りたてられ、中世からの苗木城を改修した城だが、この城が面白い!
山城に石垣を積み上げて築かれた苗木城。見よ!!この見事な大矢倉の石垣!(写メ1)
元々この山は巨岩が剥き出している山なのだが、その岩を利用して石垣を築いていていて、そのコントラストは素晴らしい♪
しかし、岩がゴツゴツしているという事は平坦な部分が少ない事を意味していて、そこに建築物を建てる為に「かけや造り」にしてあるのだ。(京都の清水寺を思い浮かべてね)
天守も、山の頂上にあった巨岩に柱を立てて築いてあった。(写メ2、復元の柱。この上に天守閣があったのね)
まぁ、こんな感じ(写メ3・パンフレットの写真より)
とにかく平坦な土地が無い。岩にへばりつくように、かけや造りで建造し、空堀を埋めてまで三の丸部分を作っている。
もはや執念である…。
山を降りて、平地に屋敷を建てればいいのだが、それをしない。先祖代々の居城への執着か?あらためて造るお金が無かったのか…?
僕が一番興味を持つのが、これが一万石の大名の城だという事だ。
一万石は大名の位の最小単位。本来お城なんて持てない。そんな事許されない事で、普通は陣屋を作って政務をすのである。
実際、五十余りの一万石の大名のうち苗木藩のみが、城持ち大名である。僕の故郷、清水区の小島藩も一万石で、しかも徳川家とは親戚の松平の流れの親藩だが、陣屋住まいだ。
何故、外様大名の遠山氏だけが城を持てたのだろう?
苗木藩は江戸時代を通して一度も国替えも無く、藩主の中には若年寄になった者もいる…
異例の優遇に、異形の城。苗木城は面白いのだ!!
〓春風亭昇太〓